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小説


風の歌を聴け(村上春樹)

作品の前に村上春樹をwikiから

村上 春樹(むらかみ はるき、英語: Haruki Murakami、1949年〈昭和24年〉1月12日 - ) 京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市育ち。 1964年に兵庫県立神戸高等学校に進学 1年の浪人生活ののち、1968年に早稲田大学第一文学部に入学、演劇専修へ進む 1971年10月、高橋陽子と学生結婚 1974年(大学在学中)、国分寺駅南口にあるビルの地下でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店 1978年4月1日、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦、ヤクルト×広島を外野席の芝生に寝そべり、ビールを飲みながら観戦中に小説を書くことを思い立つ

村上春樹が1979(昭和54)年に発表した処女作

1979年と言えば
・インベーダーゲームの大流行
・ソニーのウォークマンが発売
・久保田早紀が「異邦人」でデビュー
・NECが後に国産パソコンの代表的機種となるPC-8000シリーズの第1弾となるPC8001を発売
・第2次石油危機の発生
・米スリーマイル島で原発事故の発生

などの出来事があった

それはそれとして、本作の背景・空気感を伝える記載をwikipediaの「執筆の背景」から抜粋・引用する

1978年4月1日、明治神宮野球場で行われたプロ野球開幕戦、ヤクルトスワローズ対広島東洋カープ戦を観戦していた村上は、試合中に突然小説を書くことを思い立ったという。

それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが二塁打を打った瞬間のことだった。

当時ジャズ喫茶を経営していた村上は、真夜中に1時間ずつ4か月間かけてこの小説を完成させた。

村上にとってまったくの処女作である。

後のインタビューによれば、チャプター1の冒頭の文章(「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」)が書きたかっただけで、あとはそれを展開させただけだったと語っている。

村上自身は小説の冒頭を大変気に入っており、小説を書くことの意味を見失った時この文章を思い出し勇気付けられるのだという。

妻の「つまらない」という感想に従って、頭から全体的に書き直している。

村上は後年、本作について「『風の歌を聴け』という最初の小説を書いたとき、もしこの本を映画にするなら、タイトルバックに流れる音楽は『ムーンライト・セレナーデ』がいいだろうなとふと思ったことを覚えている。

そこにはエアポケット的と言ってもいい、不思議に擬古的な空気がある。

僕の頭の中で、その時代の神戸の風景はどこかしら『ムーンライト・セレナーデ』的なのだ」と語っている

ポイントは『ムーンライト・セレナーデ』的なのだという箇所、「ムーンライト・セレナーデ」と言えば、ノスタルジックというか良き時代を懐かしむとか大らかで幸せな雰囲気、それでいて今ではそこには戻れないような哀愁を伴うような印象がある

そうした神戸で若かりし頃の回顧を織り交ぜたように書き下ろした作品のよう

同じくwikipediaの「表紙」から抜粋・引用する

村上が1960年代後半に『ガロ』に掲載された佐々木マキの漫画の愛読者だったことから、単行本の表紙は佐々木によって描かれた。

原画の技法はモノタイプ(単刷版画)、グアッシュ。寸法は348ミリ×260ミリ。

「僕が『風の歌を聴け』という最初の小説を書いて、それが単行本になると決まったとき、その表紙はどうしても佐々木マキさんの絵でなくてはならなかった。

本ができあがって、書店に並んだとき、とても幸福だった。

僕が小説家になれたというだけではなく、佐々木マキさんの絵が、僕の最初の本のカバーを飾ってくれたということで」

村上は1984年の時点で次のように述べている。

「僕はこの『佐々木マキ・ショック』を抱えたまま1970年という分水嶺を越え、僕自身の二十代をたどりつづけた。そして三十になってやっと小説を書くようになった。

僕の本当の気持ちを言えば、あの頃佐々木マキが我々の世代に与えたのと同質のショックを、僕は僕の小説によって若い世代に与えたいと思う。

でもなかなかそんな風にうまくはいかない」

村上に多大な影響を与えた佐々木マキの作品とはどのようなモノだったのか...

工事中

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